不惑オヤジ(と娘)の将棋な日々

アラフォー親父と小学生娘の悪戦苦闘の記録

棋譜並べで迷走中?

最近、将棋が上達するための本質、というものがなんとなく見えてきました。

だからと言って、じゃあお前は実際強くなったのかというとそういうわけではありません。あくまで本質が「見えた」だけで、その本質に「到達する」にはやはり一朝一夕にはいきそうもないからです。ただ、何を目指して勉強/練習すればいいのか、という点はかなりクリアになりました。

私が見ている「本質」とやらは本当に正しいのかという問題はもちろんありますが、これについてはもう少し確信できるようになったら、いずれここで披露しようと思います。

で、それにからんで、最近「高速棋譜並べ」をやめました。あれは人によっては有効なケースもあるでしょうが、自分の性格、ものの考え方からすると本質に到達できる道にはならないと判断したためです。今やっているのは、高速ではない方の普通の棋譜並べです。

実は棋譜並べという勉強法には以前から疑問を持っていました。このブログでも何度か触れたような気がしますが、指し手の意味を理解する素地が無いのにプロの棋譜を並べて理解しようとするのは、掛け算の九九ができないのに微分積分を解こうとするようなものなのではないかと。

実際、棋譜を見ながら並べてみても、どこがポイントなのかもわからず、仮にポイントがわかってもそのポイントに対するプロの指し手が理解できず、なんとなく並べてなんとなく終わる。私がそれまでやってきた棋譜並べはこんな感じだったのです。

上記の棋譜並べに対する疑問を、オンライン教室の講師にぶつけてみました。で、実際に一緒に棋譜並べをしてもらいました。

その結果わかったことを言語化しろと言われても難しい部分があるのですが、多分、私は正解など無いはずのポイント局面で無意識に正解を求めていたのだと思います。だから、答えが示されることがない棋譜並べという勉強法にいまいち馴染めなかった。

この場面でこう指したらどうなる、こうなるんじゃないか、これならどうか、じゃあ本譜はどう指されたのか、どう進んだのか。たとえ正解がでなくても、こういったことを思考することに意味があるんだな、と思うようになりました。

「次の一手」問題とかは、急所を探る眼力を養うのに役立ちますが、実際の対局では「次の一手」に出てくるような鮮やかな手筋が決まる場面というのは、稀とまではいいませんが決して多くはない。ほとんどの局面では、未知の領域をかき分けて手探りで進んでいくことになります。

そのような時に、重要なものは何か。

「自分なりの基準」じゃないかと思うわけです。これは、とりあえず間違っていてもいい。間違っていてもいいので、まずは基準を持つ。基準が間違っているならあとから修正すればいいだけですが、基準を持っていないとこれを正すこともできず、良いのか悪いのかわからない手を漠然と指すしかない。

実際、プロが指す定跡の世界だって、それまで常識とされてきた手があるとき新手によって覆るということはしばしばあるわけじゃないですか。間違っていてもいいから、まずは自分なりの解を持っていることが大事なんじゃないかと。

棋譜並べとは正解を求めるのではなく、自分の考えを持つこと、そのための思考力を鍛えるものなのかな、と今は思ってます。だから九九ができなくても微積分やったって別に構わないってことですね。

そしてこの結論は、一応冒頭で述べた「本質」にも連なっているのですが、それについてはいずれ機会があればということで。

あと、棋譜並べは練習というよりも、対局を観戦するような感覚で楽しんでやるのがいいんじゃないかって気がしていますね。どうせ正解は無いのですから、あれこれ考えを巡らせることを楽しむようにすると、棋譜並べにも熱が入るようです。

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